walk on the blue ocean.

book,music,movie&investment

泥だらけの日々。 〜時計を外して①〜

今回でブログ10回目となりました。

 

1回1500字前後で1つのテーマを決めて、サラリと軽快に読みやすいものを週に1回書きたいなと思って始めました。

 

が、始まってみたら、今の僕にそんなサラリとした文章を書ける能力はなくて、いつの間にかドロリとした泥臭い内容と長い文章になってしまっていました。

 

そこで、開き直って今回から少し泥にまつわる話を。

 

この話はちょうど1年前の健美家コラム第14話に書いた伊集院静さんの「時計を外して」という本の話につながります。

 

僕は本当はおぼっちゃま系の大学に行きたかったことは以前のブログで書きましたが、僕的にはビリギャルをも上回る努力と奇跡で早稲田大学に合格しました。(僕の中ではビリギャルを認めていないのでまだ観てません。)

 

1994年4月。

 

大学生活が始まったばかりの頃に大学の掲示板の前で、周囲の存在感とは別次元の光り輝く人物を見つけました。

 

高校サッカーで有名だった愛媛県南宇和高校の友近君でした。

 

スポーツをする高校生にとって、夏の甲子園と双璧をなす冬の全国サッカー選手権大会で2年生の時にベスト4に進出し、2年生で一学年上の有名選手ばかりが選ばれている日本高校選抜に選ばれた男。

 

僕ら昭和50年生まれの中では、当時は後に日本代表で活躍する城選手や川口選手よりも有名でした。

 

彼ほどの人物だから前の年に始まったばかりのJリーグに行くと思っていましたが、早稲田に進学するということが春休みに読んだサッカー雑誌に書かれていました。

 

その彼を僕は、大学の掲示板の前で見つけたのです。

 

僕は思わず、「友近君だよね?」と声をかけてしまいました。

 

今思えば、僕の人生初のナンパでした。

 

あの時から今も続く彼との関係を思うと、あの時の出会いって物語みたいに決められていたのかなと思います。

 

さて、しかしその後、そんな出会いがあったのに僕は足を怪我していたこともあったりしてサッカー部の入部テストを受けることを諦めました。

 

そのことを群馬にいる父に電話で報告したところ、とても残念がっていました。

 

が、僕は大学ではサッカー部に入らない。その時はそういう人生を選びました。

 

そしてその後、群馬の同郷の先輩が立ち上げたサッカーサークルに声を掛けてもらい入りました。

 

てきとうに練習をして飲みに行って誰かの家で昼まで寝て。ただひたすら楽しい毎日。

 

ゴールデンウィークには河口湖でサークルの合宿まで経験しました。

 

しかし憧れていたはずの、楽しいはずのサークル生活も1ヶ月もしないうちに虚しさを感じるようになりました。

 

どんなに苦しくても本気でサッカーをしたい。

そのことに気がついた時には、もう手遅れでした。

 

もうサッカー部の新人募集の期間は終わっていました。

 

しかも、僕らの年は15人前後の枠に全国から足に覚えのある100人近くの希望者がトライして皆途中で入部テストの苦しさに諦めて去っていったと、テストを受けて挫折して帰ってきたばかりだという同じサークルに入ってきた同じ1年生の話を聞きました。

 

僕の大学生活はこれからどうなってしまうんだろう。

 

ゴールデンウィーク明けに、大学の体育のサッカーの授業が僕の自宅近くの東伏見のグランドで行われました。

 

せっかく父と探して決めたサッカー部に入る前提で借りた、サッカー部の練習が行われる東伏見のグランドの近くの僕の一人暮らしの部屋も、サッカー部に入部できない今の僕にとっては何の意味もありません。

 

そんな虚しさを感じながらも出席した体育の授業レベルのサッカーで僕はダントツでした。面白いように1人で突破してシュートを決めて。

 

特に、授業終了直前に左足のアウトサイドでゴール右上隅にカーブをかけて入ったゴール。

 

僕の人生で最も美しかった奇跡のようなゴールでした。

 

いえ、実際に奇跡を起こしました。

 

授業が終わって全員の前で、体育の先生に声を掛けられました。

 

「おまえは、どこでサッカーをしていたんだ。」

 

「なんでサッカー部に入らなかったんだ。」

 

僕は、

 

「足を怪我していて入部テストは受けられなかったが、サッカー部に入れるなら入りたい。」と先生に伝えました。

 

そうしたら、周りも騒然とした一言が。

 

「俺が言ってやるから、お前はグランドに残れ。」

 

その先生は後で知ったのですが、サッカー部OBの中でも有名な吉田先生という人でした。

 

当時のサッカー部の監督であった松永監督に、「アキラ、こいつ速いからサッカー部に入れろ。」なんてことを言える人はなかなかいません。

 

でも僕はその一言で、僕はサッカー部に異例の合流をすることができました。

 

でも、そこからが地獄の始まりでした。

 

特別扱いで入部するチャンスはもらいましたが、入部テストを受ける権利を得るための新人走りが待っていました。

 

それだけではありません。ほかの1年生と同様、朝早くからグランドに出て夕方の練習開始までひたすらグランドを整備する毎日。

 

雨が降って泥だらけの田んぼのような、ときにはアスファルトのように硬くなったグランドをとにかく上級生が最高の環境で練習できるように何時間もトンボをかける。

 

小石が1つでもグランドにあったら、練習後に新人特訓という脱走者が出るほどのシゴキが待ち構えていると脅かされながら。

 

練習前に、グランド整備で体力も気力も使い果たしているのに練習が始まったら、今度は入部テストの資格を得るために、ただひたすら走らされる。

 

練習が終わったら、また終電近くまでグランド整備。

 

それが終わったら、日付が変わりそうな時間に入部テストに向けて誰もいないグランドで走り込み。

 

それが終わったらグランドの照明を消して、ボロボロになった身体をグランドの隣にあったラグビー部と一緒に使っていた風呂に入って帰る。

 

特に僕の一人暮らしの部屋は、ユニットバスでしたから、足を伸ばして肩まで浸かれるグランドの風呂はありがたいものでした。

 

しかし、サッカー部、ラグビー部の先輩達が何十人も入り終わった最後の風呂は真っ黒の泥だらけ。

 

シャワーだけで帰った方が綺麗なのですが、疲れた身体から少しでも疲労を取り除くために汚いのを承知で泥風呂に浸かる。

 

それでも先輩達もいない風呂は心からリラックスできる唯一の時間で、当時はそんな泥風呂が天国に思えました。

 

今となってはよくあんな汚いところに。と思いますが、同時に、あんなに汚くて臭くて仕方がなかった泥風呂が懐かしくて恋しくて思い出すだけで涙が出そうになります。

 

話を戻すと、朝から晩まで文字通りずっと泥だらけな毎日でした。父から体育会の1年は奴隷と同じだからと言われていたから覚悟はしていましたが本当に毎日が限界でした。

 

全てが終わって、一人暮らしの部屋に戻るとベッドに倒れて泥のように眠ります。

 

ある晩、遠くから音が鳴っているのが聞こえました。

 

しばらくしてそれが夢の中ではなくて、玄関のチャイムだと分かりました。

 

 あまりの疲労にしばらく放っておいても、そのチャイムは鳴り止みません。

 

夜の1時を回っていたと思います。

 

玄関のドアを開けてみると、サークルの先輩や仲間達が10人くらいいました。

 

そしてサークルを立ち上げた同郷の先輩、達也さんが酔っ払ってベロベロになりながら「健太郎をサッカー部なんかにやらねえぞ。」と熱く大声で叫びます。

 

今から考えると僕は本当にあの時の皆さんに失礼でしかなかったのですが、思いっきり迷惑そうな顔で「疲れているんです。」と言い放ちました。

 

それでも達也さんが熱くサークルに戻れと叫びます。周りの人たちが達也さんを止めながら、「健太郎はサッカー部に入るために頑張っているのだから帰ろう」と言ってくれました。

 

その日はそれで終わったのですが、今思うとなんで一言お礼を達也さんに言えなかったのだろうと思います。

 

達也さんは、同じ群馬の後輩に自分のつくったサークルを将来的には託したかったのかもしれません。

 

本当に1ヶ月だけでしたが、達也さんには可愛がってもらいました。

 

そんな先輩にあんな態度を取ってしまったなんて。わざわざ僕のために来てくれたのに。

 

少し話は飛んでしまいますが、あの94年から20年後の2013年。

 

ある日ヤフートップニュースに、AKBの大堀恵さん結婚という記事を見つけました。

 

アイドルグループに興味のない僕が珍しくクリックしてみると、放送作家金沢達也さんと結婚。という記事でした。

 

まさか、まさかとは思いながら写真を見てみるとあの日僕をサークルに戻そうと僕の家にまで来てくれた達也さんでした。

 

さて、もう今回は3500字を超えたので次回に続きます。

 

僕の泥だらけの日々はまだまだ続きます。

 

f:id:kentarohirota:20170910194326j:image