walk on the blue ocean.

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42。

僕は、

もうずっと長いことBOØWYを聴いていなかった。

 

 

BOØWYに対して、当時のような熱い感情は全くなかった。

 

 

それでも僕は布袋さんのライブに行くことで人生で1番クレイジーだったティーンネイジャーの頃の自分を思い出したかったのかもしれない。

 

 

 

チケットを買ったのは発売後しばらくしてからだったから、座席は2階席だか、3階席だか忘れてしまったが、とにかくとても遠いところだった。

 

 

 

 

開演前からの布袋コール。

 

 

 

 

30周年を記念してのBOØWY、COMPLEX、ギタリズム時代を振り返る最初で最後の特別な一夜。

 

 

 

 

会場のボルテージは開演前から最高潮で、僕は息をするのも苦しいくらいドキドキしていた。

 

 

 

 

布袋さんは、こんなにすごいところでずっと戦っていたんだ。

 

 

 

 

それに比べて、

僕の人生はいつからこんな風になってしまったんだろう。

 

 

どうしてこんな風になってしまったんだろう。

 

 

どうして。

 

 

どうして。

 

 

どうして。

 

 

 

 

 

そんなことを考えていたら、突然会場が暗くなった。

 

 

 

もう心臓が止まりそうなほどバクバクしている。

 

 

 

ああ!布袋さんだ。

 

 

 

 

僕が昔死ぬほど憧れ続けたあのシルエットのままだ。

 

 

 

 

1曲目はなんとBOØWY初期のTEENAGE EMOTION。

 

 

 

僕は、

10代の頃の激しく溢れる程の激情を思い出した。

 

 

 

いつも何かに不満を持って納得していなかった毎日。

  

 

 

「どこかの誰かが俺たちに呼びかけている、腐った何かを捨てちまえと」

 

 「It's Not Too Late Because We Are Young,Because We Are Young」

 

 

 

 

あの頃の僕が今の僕を知ったら、どう思うだろうか。

 

 

 

 

僕はこの武道館で数々の楽曲を聴きながら、

初めてBOØWYを知った14才の頃からの自分を思い出していた。

 

 

 

父も母も、BOØWYに夢中な僕に呆れていた。

 

 

 

父も母も仕事中だった14才のある日、僕は試験期間中だったために早く自宅に帰ってきた。

そして勉強もせずに漫画を読みながらCDラジカセの音量を上げて自分の部屋でBOØWYを聴いていた。

 

 

 

しばらくすると突然、部屋の扉が開いた。

 

 

父が立っていた。

 

 

音を大きくしすぎたために父が帰ってきたのを僕は気が付かなかったのだ。

 

 

「やばい、お父さんに怒られる。」

 

 

父が近寄ってきた。

 

 

 

そして、CDラジカセの音量を調節するつまみを逆に回した。

 

 

 

「逆」に。だ。

 

 

 

「こういうのは、大きな音で聴かないとつまらないよな。」

 

 

 

そう言ってニコッと笑って、父は階段を降りていった。

 

 

 

 

僕は、父母の大きな優しさに何度救われたか。

 

 

 

 

僕は、高校を3校受験した。

すべり止めとして高崎高校の次のレベルの農大二高、

そして布袋さんの母校、新島学園

 

 

受験の順番は、

新島学園

農大二高、

高崎高校

 

 

 

新島学園に合格した時点で

僕の高校受験は終わっていた。

 

 

農大二校にも合格して、

そして最後の高崎高校

 

 

しかし、その前に

高崎高校に不合格だった場合を考えて、

どちらかの高校の入学金だけ払っておかなければならない。

 

 

 

僕は、新島学園をお願いした。

しかし、世間的にはどう考えても農大二高。

 

 

母は二校とも入学金を払っておいてくれた。

 

 

 

 

 

 

大学受験。

 

 

僕はずっと大学には行く気がなかったから、

高校では好き放題やった。

 

 

 

高3の6月に、

帝京大学の推薦申し込みがあった。

 

 

 

当時の担任から、

 

「広田、お前どうだ?」

 

とみんなの前で言われた。

 

 

 

僕は、

大学に行くとしたら最低六大学しか興味がないと答えると、

お前なんか帝京だって難しいぞと。

 

 

クラス中、大爆笑だった。

 

 

 

僕は、一人机の下で鉛筆を半分に折って悔しさを押し殺していた。

 

 

 

絶対に見返してやる。

と誓った。 

 

 

 

 

7月の全国模試を受けた。

 

 

言葉として日本語はわかるけど、

問題の意味がわからない。

 

 

 

 

結果はどの教科も 偏差値が30台ばかり。

 

 

 

母に無理を言って、

夏休みに東京まで予備校に通わせてもらった。

 

 

 

半年間、死ぬほど勉強をした。

 

 

大学受験は、高校受験の上をいく9つ受験をさせてもらった。

 

 

甲南大学1学部

成城大学1学部

成蹊大学1学部

青山学院3学部

立教大学2学部

早稲田大学1学部

 

これだけ受ければどこか受かるだろうと。

 

 

 

特に、最後の早稲田は受験直前の1月に受けようと思った。

 

 

親戚のお姉さんとお正月に会った時に、

 

 

「健ちゃん、早稲田のスポーツを受ければ?」

と教えてもらったからだ。

 

 

そんなの存在さえ知らなかった。

 

 

 

僕はおぼっちゃま大学に行って、たくさん遊びたかったのだ。

 

 

 

 

でも、ほとんどがマークシートだからとそんな軽い気持ちで受けることにした。

 

 

 

 

 

  

二番目に受けた成城大学の試験が終わった瞬間に、

「合格した。」

と思った。

 

 

 

 母に公衆電話から電話をしたのを覚えている。

 

 

 

でも、他はサッパリ。

 

 

 

 

第一希望の青学なんて、

全く受かる気がしなかった。

 

 

 

立教は途中で席を立って帰ろうと思ったくらい。

 

 

かるとしたら成城くらい。

でも、成城だって偏差値は60ちょっとの難関校だ。

 

 

 

 

結果は、驚くことに成城は合格していた。

 

 

 

 もう、奇跡だった。

 

 

 

それからは、友達みんなと連日連夜カラオケで大パーティーをした。

 

 

 

しかし、まだ早稲田の受験が残っていた。

 

 

 

全く行く気がなかったので忘れたふりをして誤魔化そうとしたら、

当日朝、母に

「今日受験でしょう?」

と言われて、仕方がなく行った。

 

 

 

行きの新幹線で、

外しておいた腕時計を座席にそのまま置いてトイレに行ったら帰ってきたら盗まれていた。

 

 

 

もう完全にやる気ゼロになった。

 

 

 

時計もなく試験を受けた。

 

 

時間がわからないのにどうやって試験をすればいいんだ。

 

 

 

問題も全くわからないので、

ほとんどの回答は鉛筆サイコロの数字の出たままに。

 

 

 

それだけじゃ、味気ないからと

マークシートを塗りつぶすのも配列が美しくなるようにとか、

受験生は問題作成者が1をずっと答えにするんなんてできないだろうからと考えるだろう、だから問題作成者は1という答えを連続するかもしれないから1を5つ連続でマークしたりと完全に試験をしていたのではなく心理テストみたいな感じだった。

 

 

 

 

もう本当にメチャクチャだった。

 

 

 

さっさと終わりにして、

試験が終わるまで

ガーガーと寝た。

 

 

 

真剣に受けていた人には

かなり迷惑だったと思う。

 

 

 

いびきで試験官の人に起こされて警告されたくらいだったから。

 

 

 

もちろん、合格発表の日も忘れていた。

 

 

 

僕だけでなく、父も母も。

 

 

 

 

もう僕は、

成城大学に行くことになっていてしかも父のアメフトの関係でアメフト部の監督から手紙まで来ていた。

 

 

 

早稲田のことなんか完全に忘れていたある日、

友達と遊んで自宅に戻ると郵便ポストに早稲田からの封筒が届いていた。

 

 

 

結果発表の紙が送られてきていたのだ。

 

 

 

そのままゴミ箱に捨てようとも思ったが、

テレビを付けてソファに座り、

何気なく封筒を開けて

僕は凍りついた。

 

 

 

僕の番号があったから。

 

 

 

仕事中の父母に電話をした。

 

 

 

そこからはもう大騒ぎだった。

 

 

 

でも、歴史は繰り返す。

 

 

 

大学で遊ぶ気満々だった僕は早稲田行きを嫌がる。

 

 

 

スポーツ学部だけ所沢の山奥のキャンパスなのだ。

 

 

 

父と所沢キャンパスを見に行くことに。

 

 

 

ここでどうやって遊ぶのか。

 

 

 

そして、

帰りに東伏見のサッカー部を見に行った。

 

 

 

なんと入部試験があるらしい。

 

 

 

僕の着ていたコートを、「これどこで買ったの?」と部員の方が話しかけてくれた。

「原宿です。」と答えた。

 

 

 

隣のアメフト部のグランドに行ったら、

父が早稲田のアメフト部の人に声をかけられた。

 

 

「広田さんじゃないですか?」

 

 

父は、アメフト界では本当に有名だったんだ。

 

 

 

覚えているのはそれくらいで僕は成城大学行きの意思を固めた。

 

 

 

早稲田の視察は逆効果だったのだ。

 

 

 

母は成城の入学金も学費も払っておくから、

まずは早稲田に行ってみろと。

 

 

 

嫌だったらやめて成城に行っていいからと。

 

 

 

 

早稲田の入学式の時間は僕は自宅のベッドで寝ていた。

 完全にナメていた。

 

 

 

 

その時はわからなかったけれど、

今は本当によくわかる。

 

 

 

大学を9つも受けて入学費、学費までダブルで払ってくれる人がどこにいるのか。

 

 

 

 

僕は本当にバカで、父母に甘え放題だった。

 

 

 

 

でも、

 

 

 

父も母もそんな僕をいつも信じてくれているのだ。

 

 

 

 

昔からずっと。

 

 

 

 

 

そして今は僕を信じて一緒になってくれた妻もいる。

 

 

長男も、生まれたばかりの次男もいる。

 

 

 

 

 

10代の頃に夢中になった曲を聴きながら、

10代の頃の僕と

今の僕、

そして

今の僕を心配しながらも応援してくれている家族の顔が浮かんできた。

 

 

 

 

人間は、強制されるよりも、とことん好き放題させてもらって

いよいよ自分で心から自覚した時は強い。

 

 

 

 

俺はどんなに大変でも打ちひしがれている場合じゃない。

 

 

 

 

死んでも絶対にギブアップできないんだ。

 

 

 

 

もう一度、やってやるんだ。

 

 

 

 

僕はNが隣にいることも忘れて、

肩を震わせて嗚咽していた。

 

 

 

 

気がつくと最後の曲になっていた。

 

 

 

布袋寅泰 / LONEY WILD

 

「きっといつの日か 孤独とも愛し合える

影さえ捨てた奴らには分かるはずのない祈り

きっといつの日か 自分を超えられると

涙が出るほど痛いPUNK 聴くたびに信じられる

 

きっといつの日か誰かの腕に抱かれ

傷だらけのその心に熱いキスの雨が降る

きっといつの日か 愛の嵐に溺れ

戦った数年間を振り返れると信じて

生き抜いてやれ昨日と明日の間

お前はLONEY WILD」

 

 

 

僕は2011年2月1日の武道館でこの歌を聴いて、

きっといつの日かこれからの数年間をどこかで振り返れる日が来ると、

その日を夢見て戦ってきました。

 

 

 

健美家コラムの第25話でも書いたのですが、

https://www.kenbiya.com/column/hirota/25/

今年2017年2月1日からのマレーシア生活で僕は約2週間全く何もせずに、

あの武道館の夜やこれらの日々のことを振り返りながら過ごしました。

 

 

 

 

本当に特別な2週間でした。

 

 

 

 

そしてもう皆さんはお気づきでしょうが、僕が2月1日からマレーシアの生活を始めた理由。

 

 

 

 

そうです。

 

 

 

 

また布袋か。

 

 

 

 

もう41歳にもなって。

 

 

 

こんなことを知ったら僕の周りのみんなは、また深いため息でしょうね。

あの修学旅行の時みたいに。

 

 

 

本当に僕は14才から思考回路が変わっていないのです。 

 

 

 

 

今思えば14才のあの日、名曲堂で出会った1枚のCDが僕の人生をとびっきりの最高なものにしてくれました。

 

 

 

 

「誰にも似たくない。

どこにも属さない。」

 

 

 

と誓いをたてた 4人組に僕は14才で出会い心から憧れ、

 

 

そして

41才の今もあの頃の気持ちのまま、

「誰にも似たくない。

どこにも属さない。」

人生を送っています。

 

  

 

これだけが、僕の人生の矜持です。

 

 

 

僕のブルーオーシャンの原点は、父と母とBOØWYです。

 

 

 

 

以上が、僕の14才から41才までの話です。

 

 

 

 

 

 

そしてここからは昨日42才になった僕が書いた、

「その後」の話です。

 

 

・高崎の名曲堂も新星堂も、2005年前後にたくさんの人に惜しまれながらも閉店されました。

 

 

・名曲堂で出会ったメガネのYさんは、その後もずっと僕に色々な音楽を教えてくれました。僕が地元でレコード屋さんをオープンするときには挨拶に行きました。しばらくして名曲堂が閉店してから、Yさんが僕のお店で働くことになりました。僕のお店ではロックを扱っていなかったので、ロックを取り扱う責任者として迎え入れましたが、僕の力不足であまり長く働いていただけませんでした。

 

 

高崎市の若者文化の発祥地として一時代を築いてきた新星堂。レコードだけではなく、地下は本屋さん、3階は楽器屋さんと、本当にたくさんの若者が集う場所でした。

 

 

新星堂のビルはその後解体されて、その跡地を今は僕の会社で所有しています。僕の父親が僕に買わないかと話を持ってきてくれたのです。14才の時に父がCDラジカセのつまみを逆に回してくれてから本当に色々なことがありました。しかし、僕の人生で起こった色々な点をつないで線にするには僕はまだ少し早いと思っています。まだまだ色々なところで僕ならではの点を残したいと思っています。そしていつの日か僕に力が備わってたくさんの点を線で繋げる時には、この新星堂の跡地をもう1度高崎市の若者が集う文化の中心になれる場所を作れたら最高だなと思っています。

 

 

 

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