walk on the blue ocean.

book,music,movie&investment

時計を外して③

94年初夏。

 

ツボタさんと初めて会ったのは、大学一年生のサッカー部の練習が休みの日のとても暑い午後の日のことでした。

 

クラウディースプーンという青梅街道沿いのコンクリート打ちっ放しのマンション203号室に住んでいた僕は、自分の部屋の玄関を開けて短パン1枚で自転車を磨いていました。

 

気持ち良い風がベランダから玄関にかけて抜けていくので玄関を開けておいたのです。

 

それが、ふとした時に強い風でオートロックの玄関が閉まってしまいました。

 

上半身裸の短パン1枚で他に何も持たずに玄関の外に置き去りになってしまった僕は、しばらく呆然と立ち尽くしながらも意を決して駅前の不動産屋さんまで自転車で全力ダッシュで行こうと決めました。

 

幸いにも運動部の学生が多い東伏見という土地なので、初夏の午後に上半身裸で自転車に乗っている学生が1人くらいいても平気だろうと。

 

不動産屋のおじさんも僕が運動部だって知ってるから、突然裸で行っても事情を話せば大丈夫だろう。

 

 

 

その時に、ふと「いい体してるね!何か運動でもしてるの?」と後ろから声がしました。

 

マンションのエレベーターから降りたばかりの明石家さんまさんに似た雰囲気をしたお兄さんが僕の部屋の前に向かって歩いてきました。

 

「サッカーをしてます。いま、部屋の鍵を持たずに玄関が閉まってしまったんです。」

 

「そっか。僕は201号室のツボタといいます。よろしくね。ベランダの窓の鍵はかかってる?」

 

「いえ、空いています。」

 

「じゃあ、僕がベランダから部屋に入って玄関を開けてもいいかな?」とツボタさんは言いました。

 

ツボタさんはとび職をしていて、車にハシゴがあるからと言って、ベランダにハシゴをかけてスルスルっと登ってわずか数分の間に僕の部屋に入って玄関のカギを開けてくれました。

 

あまりの軽い身のこなしと仕事で鍛えられた細く筋肉質な身体、そして初めて会ったばかりの年下の僕に対する柔らかい物腰、僕は一瞬でツボタさんのファンになりました。

 

「ところで、君はサッカー部に入れるなんてすごいね。」

 

「いえ、まだテストに合格していないので、合格に向けて頑張っている毎日です。」

 

「ああ、そうなんだ。じゃあ、がんばってね。」

 

ツボタさんはそう言って爽やかに去って行きました。

 

 

僕はツボタさんの優しさに本当に感動しました。

 

 

20年以上経過して今もハッキリとあの日のことを覚えているくらいに。

 

 

 

それからも僕の部活の帰りとツボタさんの帰宅が重なってお会いした時、1ヶ月に1回くらいでしたが、ご挨拶をしていました。

 

 

その後、僕はなんとかサッカーの入部テストにパスすることができたものの地獄のような真っ黒な毎日は続いていました。

 

 

明日こそはやめてやる。

 

 

ある日、そう思って部屋を出て夕食を食べに行こうと僕がエレベーターに向かうと、エレベーターからツボタさんが出てきました。

 

 

ツボタさんは、仕事から帰ってきたタイミングみたいで手にはおそらく夕食が入っていると思われるマンション近くのファミリーマートの袋を持っていました。

 

 

「おお、広田くん。その後どう?」

 

 

「おかげさまでサッカー部に入部できました。でも、あまりにも厳しくてもう限界です。やめたいやめたいと毎日思っているんです。」

 

 

ツボタさんは、少し残念そうな顔をして、それから何かを思い出したように、コンビニの袋から何かを取り出しました。

 

 

「そんな時は、この本を読んでみたらいいよ。じゃあね!がんばって!」

 

 

僕の手に文庫本を手渡して、それだけ言い残すとすぐに部屋に向かって歩いていってしまいました。

 

 

 

コンビニで買ったばかりの本だったのでしょうか?

 

 

それとも読みかけの本だったのでしょうか?

 

 

今となってはそれは分かりませんが、僕はツボタさんから1冊の文庫本をいただきました。

 

 

次回、時計を外して④に続きます。

 

 f:id:kentarohirota:20170924231129j:image

 

家族でペナンに移住して1ヶ月が経ったお祝いに、シンガポールに行ってきました。

 

ペナン島からシンガポールまで1時間20分の直行便で、チケット代は往復で1万円もしません。

 

夢のような生活です。