14→41。
誰にも似たくない。
どこにも属さない。
BOØWYの「Ø」には、
そんな意味が込められている。
14歳の時、
初めてCDコンポを買ってもらった。
そして初めて買ったCDは、
友達からカッコイイと教えてもらった
地元出身の伝説のロックバンド、
BOØWYのCDだった。
当時、高崎には名曲堂と新星堂というレコード店があって、昔、学生時代の布袋さんが名曲堂によく通っていたとか、氷室さんが新星堂の階段のところで怖そうな人といつも座っていたとか、地元ならではの数々の逸話があった。
僕は、その名曲堂というとても小さなレコード店に入って店員さんにBOØWYのCDがあるか聞いてみた。
メガネの店員さんは、初めてならこれがいいよと「Ø」と書かれたジャケットのCDを出してくれた。
BOØWYのシングル曲が全部入ったSINGLESというベスト盤のアルバムだった。
初めてのコンポに、
初めてのCDをセットして
PLAYボタンを押した瞬間のことは本当によく覚えている。
1曲目の「ホンキートンキークレイジー」という曲が流れた瞬間に僕の人生の全てが変わった。
それからは全てがBOØWYだった。
地元の名門校である高崎高校に合格しても、
僕は布袋さんの出身校である新島学園に行くと言って母を困らせ、しまいには学校の学年主任の先生まで巻き込んだ騒ぎに。
高校1年の夏には部活をサボって、富士急ハイランドまで中学サッカー部の時の友達Nに付き合ってもらって布袋さんのソロコンサートを観に行った。
コンサートでは大雨が降ったり、帰りの東京で終電がなくなり池袋の西武デパートの入口でダンボールに包まって野宿したり。
高校の京都への修学旅行でも、みんなは金閣寺とかの京都らしいお土産を買っていた。
僕は、お土産屋さんに売っていた1.5メートル位もある超特大のBOØWYのパネルを買って帰りのバスに乗り込んだ。
こんなすげえの高崎には売ってない!
僕は興奮していたが、周りの友達はドン引きしていて、担任の先生も絶句していた。
今なら僕もそれはおかしいことだと分かる。
京都まで来て、修学旅行でBOØWY買うか?
でも当時は、本気だった。ウケ狙いでも何でもなくて。
京都ではその後に、湯のみにらくやきで模様をつけたのだけれど、僕は布袋さんのG柄といわれるあのあみだくじみたいな模様を湯のみに描いた。
そしてそれを見ても、もう僕に誰も何も言わなかった。
あいつは、クレイジー。
いつもBOØWYだったのだ。
受験の前もサッカーの試合の前もBOØWYのSINGLESを聞いて僕は自分に特別な魔法をかけた。
ホンキートンキークレイジーを聴くと、僕は一瞬で無敵になれた。
そんなBOØWY熱も大学で東京へ行くと一気に冷めた。
BOØWYを聴いている人が誰もいない。
群馬のヤンキーの人が聴いているやつでしょ。
みたいな感じで東京の女の子に言われた。
僕も高校の後半から、布袋さんのミュージックスクエアを聴きながら色々な音楽を好きになっていてBOØWYを少しずつ聴かなくはなってきていた。
そんなタイミングでもあったし、大学生になったらFINEやWARP、東京ストリートニュースなんかの雑誌を読んでヒップホップやR&B、レゲエを聴き出した。
レコードを買ってDJのフリをした、陸(おか)サーファーならぬ陸DJになった。
ブラックミュージックにとことんハマって、大学サッカー部の練習が休みの日には一日中渋谷のレコード村巡りをしていた。
クラブにもたくさん行った。
サッカー部の仲間と卒業パーティーをやって渋谷のクラブエイジアを超満員にした。そこで超下手だったが人前で人生初のDJをした。
シンガポールでサッカーをしていた時もいつもグランドにラジカセを持っていって陽気なアフリカ人のチームメイトと踊っていた。
サッカーをやめて、アメリカにレコードの買い付けに行った。そしてレコード屋をオープンした。僕のレコード店は紆余曲折を経て全国からお客さんが集まる有名店となった。
もう完全にBOØWYは過去の触れられたくない思い出でしかなかった。
もう永遠にBOØWYは聴くことがないと思っていた。
2011年。
僕は苦しんでいた。
絶好調だったレコードビジネスをやめて、不動産業を始めたものの全く結果がでなかった。
僕は、終わりの見えない絶不調に疲れ切っていた。
その数年の間、僕にできることは全部やったし、もうこれ以上何をやれば良いのか分からない。藁(わら)でもなんでも掴めるものならば、掴みたいけれど藁さえもつかめない。
サッカーで鍛えた精神力も、もう限界だった。
そんな時に、本当に偶然インターネットで布袋30周年武道館ライブという記事を見つけた。
布袋さん、まだ現役だったのか。
スゲエな。
それに比べて、
もう疲れ果てていた僕は不動産をやめようと思っていた。
人生初のギブアップになってしまうのかな。
それならば最後に大好きだった布袋さんを観て区切りをつけるのも悪くないなと何となく思った。
僕は、
富士急ハイランドに一緒に行ってくれたNに数年振りに電話をしてみた。
「布袋のコンサートに一緒に行かないか。」
彼は、あの時と同じくYESと言ってくれた。
「サッカーでもいつも広田は攻めっぱなしだったから、俺は守るのが大変だったよ。」と笑いながら言うNは本当に優しい奴なのだ。
そして、2011年2月1日。
武道館での布袋30周年ライブ。
本当はライブのチケットを買うのも、新幹線で東京に行くのもお金が全くなくてどうしようかと思っていたけれど、起業してから今まで本当によく頑張ってきたし、これが最後になるかもしれないからと自分で自分にご褒美のつもりでチケットを買ったのだ。
次回、来週の日曜日に続く。