walk on the blue ocean.

book,music,movie&investment

さらなる買付けを。

ペナン島に家族が移住してきて1週間が過ぎた。

 

旅行と住むということは全く違うわけで、妻も子供たちも初めての海外生活を本当にがんばっている。

 

家族みんなで夜早く寝て、朝早く起きる生活。

 

テレビは日本の地上波とBSを見られるような環境にはしたけれどほとんど見ない。そんな余裕がない。

 

wifiの速度も速いやつを契約したけれど、必要な時以外はほとんど使わない。

 

朝6時前のコーランで目を覚まし、子供たちは送迎バスで日本人学校に向かう。

 

毎朝バスの中からペナンの海の地平線から昇る太陽が本当に綺麗なんだよと長男は言う。

 

僕は、朝起きて毎日貸し切り状態のプールに入って1時間ほどゆっくりと泳ぎながら1日を始めるスイッチを入れる。

 

昼は妻とランチを食べに行って帰りにショッピングをして自宅に戻る。

 

部屋を抜けていくペナンの気持ち良い風に心からの幸せを感じる午後。

 

ソファで本を読みながら子供たちの帰りを待っている間にいつの間にか寝てしまう。

 

そして、帰ってきた子供たちに起こされてまた子供たちとプールに。

 

そして夕方は日没のコーランを聞きながら、空全体が紫色に染まる夕焼けに心を奪われる。

 

夕食を食べて、子供たちが宿題をする横で本を読んだり日記を書く。

 

就寝のコーランが聞こたら家族全員で寝室に入って1日を振り返りながら穏やかに眠る。

 

夢にまで見たシンプルで最高な毎日を僕は送っている。

 

しかし、それは今までの努力で成し遂げたこと。

 

僕は、子供たちにもう一度親として男の生き方を見せたい。

 

そして、子供たちにも毎日の生活に慣れてきたら何か1つ新しいことに挑戦して欲しいと考えていた。

 

今日の午後、ランチを食べ終えた後に長男がバスケットボールを買って欲しいと言ってきた。

 

実は僕は今年の3月まで日本でサッカースクールを7年間ほど主宰していた。

 

僕の長男も幼稚園からずっと僕のサッカースクールに通っていた。

 

でも、僕は全くといって良いほど彼にサッカーを詰め込まなかった。

 

そのせいか、彼はあまりサッカーが上手くない。でも僕はそれで全然構わないと思っていた。

 

そして、僕のサッカースクールが終わってから彼はしばらく何もしなかった。

 

僕も妻も放っておいた。彼が何かをやりたくなるまで。

 

そして、彼が自分で今日バスケットボールが欲しいといってきた。

 

僕は彼が新しくやりたいことを見つけたことがとっても嬉しかった。

 

スポーツ店で彼が選んだボールは、マイケルジョーダンが黄金時代を築いたシカゴブルズを思い起こさせる真っ赤なナイキのボール。

 

もっと安いやつを。

 

と長男は気を使って言ってきたが、値段ではなくて自分が本当に気に入ったものを。テンションが上がるやつを。そして本当に良い品質のものを。

 

僕の父親も僕に1番最初に野球のグローブを買ってくれた時に本革の最高級グローブを買ってくれた。

 

何事も最初が肝心で、最初に本物を。それがスタンダードになる。

 

いつやめるかわからないから、1番安いやつで。という考え方は僕は嫌いだ。

 

だから、すぐやめるんじゃないかな。

 

 

自宅のコンドに戻ってきたら、チャイニーズ系の中学生のお兄さんたちがバスケットコートでバスケをしていた。

 

僕は「仲間に入れてもらってくれば。」と長男に言った。

 

長男は「最初だけパパお願い」といってきたので、僕が中学生のお兄さんたちに「彼は今日初めてバスケットボールを買った初心者だけど、一緒に遊んでくれない?」とお願いしてみた。

 

彼らは笑顔で歓迎してくれた。

 

長男に後は自分の力で何とかやるように言って僕は去った。

 

僕もシンガポールでは最初はこうやってを始めたものだ。いきなりプロのグランドでプレーできたのではない。1ヶ月くらい色々な公園で草サッカーをしたものだ。僕が22才の時の話。

 

長男はまだ11才だが、バスケットボールを初めて買った日に外国人の180センチ以上あるお兄さんたちとプレーをした。

 

始まりとしては僕以上じゃないかな。

 

そんな彼に押されて僕は今日の夕方、また一件の買い付けを入れた。今回は初めてのアパート。

 

本当はもう完全にリタイアと思っていたけれど、挑戦していない僕は僕じゃない。

 

そして、何よりまだまだ子供たちに負けてはいられない。

 

 

f:id:kentarohirota:20170827202114j:image

僕のセミナーについて。

僕の運命のスタバという話を知ってくれている人も多いと思います。

 

2009年かな?ある日の夕方から夜までジム鈴木さんと数時間スタバでコーヒーをしながら色々とお話をしたのです。

 

しかし実は、その運命のスタバの前に午前中と午後の半日をかけて人生計画セミナーというものがありました。

 

(そのセミナーにジム鈴木さんも参加してくれていて、そのセミナーの後にスタバに行ったのです。)

 

僕が主催をしていた毎月の勉強会の特別版で自分の人生計画を作成して発表するというものでした。

 

あの日に恥ずかしくも参加者の前で、自分の人生の目標を日付入りで誓いました。

 

そして今度11月に僕は自分で主催をして自分が話す不動産投資セミナーをやることにしました。

 

僕の健美家コラムを読んでくれている人たちに、心からの感謝を直接伝えたいのとお礼として読者の方が聞きたいことに何でも答える場というものを作りたかったのです。

 

その時に何を話すか考えました。

 

ビル、店舗投資のこと。

 

エリアを集中させること。

 

いくらでも、あります。

 

でも、みなさんにわざわざ群馬の、しかも僕の地元である高崎市ではなく、もっと田舎の妙義町という山の中まできてもらうからには僕のとっておきのスペシャルなやつを用意したいと思いました。

 

それが僕の原点である、

 

人生計画セミナーであり、

 

運命のスタバ

 

の再現です。

 

人生計画セミナーについては、セミナータイトルを「不動産投資家のための夢を叶えるノート術」と変えて、僕がノートに自分の望む人生を書き続けたことで、本当に人生を変えた方法をお話ししますし、実際にみなさまに色々とノートに書き出してもらう時間も設けます。

 

そして運命のスタバ。

 

あの日、僕をスタバに誘ってくれたジム鈴木さんをお招きして2人の不動産投資のセミナーやあの日を思い出しながらの対談をやろうかなと思っています。

 

なんでジムさんを?と言われましたが上記のような理由からだったのです。

 

ジムさんのセミナーは、不動産投資の初心者の方にとって大変有益なセミナーとなると思いますし、僕のセミナーは僕の不動産投資のこと全般をお話します。

 

参加者のみなさまには、僕にとっての運命の日となったあの日を再現して体感してもらうことが日頃から僕のコラムを読んでくれていることの1番のお礼になるのではないかと考えました。

 

もちろん質問も時間が許す限り全てお答えしますので、たくさんご用意してきてくださいね。

 

そして、さらにはセミナー後は僕の所有ビルのテナントさんで夕食会を開催するつもりです。僕のビルを見て、みなさまに俺も私もできると思ってもらえるのではないかと思っています。

 

僕が本当に心からのお礼を込めてやるので、こういうのはそんなに何回もできませんし、やるものでもありません。

 

数年後はわかりませんが、今思っているのはこんなに濃い時間をご提供できるのは今回が最初で最期。

 

当日は沖縄、福岡、香川、岡山、京都など信じられないほど遠方からの方にもお申込みをいただいています。

 

今回お申込みの方からこんなメッセージをいただきました。

 

「広田さんを健美家コラムで拝見してから、この日が来るのを待ちわびておりました。」

 

期待されればされるほど燃える性格ですし、絶対に期待を裏切らないことが僕だと思っています。本当にスペシャルな1日にしますから、お楽しみにしていてください。

 

11月25日午前のセミナーは既に定員に達していますが、午後のセミナーはこれから募集開始となります。申込みは僕とジム鈴木さんのTwitterで告知いたします。

 

それではよろしくお願いいたします。

 

 

f:id:kentarohirota:20170820233059j:image

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

LIFE IS CHALLENGE。

2017年2月1日。

マレーシア・ペナン島コンドミニアムの賃貸契約を開始した。

 

 

 

20代の頃から思い描いた海外移住を当初の計画よりも約10年遅れてなんとか実現した。

 

 

 

その間には、本当に色々なことがあった。

 

 

 

そのうちに移住は僕の中で具体的な目標から、いつのまにかいつか叶えばという夢になっていた。

 

 

 

実現できなくてもしかたがないやという夢へ。

 

 

 

 

もう移住することは僕の人生ではないだろうなと思い始めていた。

 

 

 

 

 

2012年5月8日。

自分の会社でランチを食べながら、布袋寅泰さんのブログにMac Book Airでアクセスした瞬間だった。

 

 

 

LIFE IS CHALLENGE。

 

 

 

と題されたブログに書かれた、ロンドン移住の決意。

 

 

 

 

自身の30周年ツアーで解禁したBOØWYのDREAMIN'という曲を観衆に歌っている自分自身が夢を諦めていないか。

 

 

と自分に問うようになって20代の頃に思い描いた英国での挑戦をしようと決意したというブログの内容だった。

 

 

 

50歳を過ぎての海外でのチャレンジ。

 

 

 

アルバムを作って、ツアーをして。を繰り返していれば成功を約束されているはずの人生を捨てて挑戦をしようとしている僕の10代の頃からのアイドル。

 

 

自分だけではなく家族、スタッフやスタッフの家族。たくさんの人を巻き込んでしまうチャレンジ。そして今まで築いてきた日本での実績。

 

 

それらすべてをリセットしての挑戦は、それは家族の心配と自分の収入だけを心配すれば良い一般の人の比ではないほどの困難なチャレンジであるはずだ。

 

 

 

 

僕は心を強く打たれた。

 

 

 

 

僕の海外移住は夢で終わらせて良いのか。

 

 

 

夢を夢のままで終わらせる人生でいいのか。

 

 

 

僕のスイッチは入った。

 

 

 

でも、僕にはそれを実現できるお金がなかった。

 

 

 

そして、どうすれば実現できるのか想像もできなかった。

 

 

 

 

 

2015年6月1日。

渋谷公会堂で、高城剛さんの「旅は、人を幸せにするのか」というトークライブがあった。子供二人を母に預かってもらって妻と二人で行ってきた。

 

 

 

LCCによって世界中の人が世界中に移動を開始して、僕が10代、20代の頃に訪れた自然豊かな南の島がすごい勢いで開発されていることを知った。

 

 

 

ずっと僕はいつかは南の島に住みたいと思っていた。

 

 

 

でも、それが実現した時には僕が思い描いている南の島はもう間違いなくなくなっているはずだ。

 

 

 

僕は、帰りの車の中で妻に本気で、

「もう待ったなしだ。行動を開始しよう。」と熱く語った。

 

 

 

2012年からの3年間の間に自分でも奇跡としか思えないほどの復活を遂げていた僕には、お金も時間もあった。

 

 

 

でも、具体的にどこにどうやって移住して良いかわからない。

 

 

 

 

2015年7月21日。

朝、大学サッカー部の親友、友近君から1通のメール。

 

「ハワイの不動産セミナーがあるよ。」

 

と。

 

 

赤井誠と行く「ハワイ不動産セミナー&物件ツアー」inハワイ

 

 

というその転送された案内メールを見た1秒後に僕は申し込みフォームに記入を開始した。そして参加費の振込みもすぐに終えた。

 

 

 

妻に相談をしていなかったけれど、「ハワイだから一緒に連れて行けば文句はないだろう。ちょうど結婚10周年&1棟目のビルの借入完済ということでその記念と言えば完璧だ。」と思った。

 

 

 

ちょうどその頃の僕は、不動産投資では物件を購入できるレベルはクリアして、次のステージとして赤井さんのように財務にこだわって投資をしたいと考えていたので2015年の2月に僕は赤井さんのセミナーに参加するためだけに札幌まで行っていたのだ。

 

 

 

でも参加者は100人以上でとてもではないが落ち着いて質問をできる状況ではなかった。それにそんな時に赤井さんと話してもその他大勢のうちの一人としか認識されない。そういうのは僕は嫌だった。

 

 

 

高額なセミナー参加費と旅費、そして時間、これだけのものをクリアしてハワイに行ける人は決してそう多くはないはず。だからハワイの不動産もそうだけれどハワイに行けば、赤井さんとゆっくりと話ができると思った。

 

 

 

 

 

2015年11月。

ハワイでは運命を変える出来事だらけだった。

 

 

 

初日のセミナー後の夕食会で健美家の社長とお話しさせていただいた時に、「張田さんという方は、マレーシアに移住していますよ。」と教えてもらった。この時に、初めて張田さんを知った。

 

 

(でもその時は、マレーシアは僕の中では「ないな。」だった。昔シンガポールに住んでいた時にジョホールバルで食中毒になったのと、食事も文化も中華系が強いシンガポールと比べて、マレー系が強いマレーシアは僕にはあまり合わなかったから。)

 

 

 

そして、「お仕事はお休みされて来たのですか?」と声をかけてくれてはじまった編集の方との出会い。この出会いがなければ、今も僕は群馬の田舎で変わらない毎日を過ごしていたかもしれない。

 

 

 

赤井さんと親しそうに話をしていた現地の綺麗な女性を見て、赤井さんのように不動産投資も男性としても成功すると誓った。笑(でも、そのロコガールにしか見えなかった女性は赤井さんの奥様とあとで聞いてびっくりした。)

 

 

 

最終日夜のエバンさんの自宅でのバーベキューが僕の海外移住のイメージをリアルにし、欲望に火をつけた。

 

 

 

 

2016年3月。

健美家コラム第5話でも書いたマレーシアで張田さんに会ってもらったこと。

https://www.kenbiya.com/column/hirota/05/

 

 

張田さんの自宅の窓から見えたマレーシアの海を見ながら僕もこの海を眺めながら、健美家のコラムを書くと誓ったこと。

 

 

 

マレーシアの中でもペナン島は例外的に食事も文化も中華系色が強い。僕が滞在していた1999年のシンガポールに似た印象だった。

 

 

 

赤井さんはハワイのことを奇跡の島といったけれど、僕にはペナン島がハワイのように思えた奇跡の島だった。

 

 

 

ここに移住しよう。

 

 

 

 

一瞬でそう思った。

 

 

 

 

 

 

2017年8月。

 

実は、昨年12月末に妻のお父さんが亡くなり予定していた4月からの家族での移住は延期となりました。(でも4月に移住を計画していたので2月から賃貸契約をしたのです。)

 

 

 

なので僕は今年に入ってペナンと日本を行ったり来たりしていましたが、いよいよ数日後。

 

 

 

 

新盆を終えてから、家族4人で一緒にペナンへ。

 

 

 

 

 

思えば海外移住をするための金銭的な問題をクリアしても、さらなる壁がありました。

 

 

 

 

メンタル的なブロックです。

 

 

 

 

本当に海外に住んでいいのか。

 

 

 

 

 

今までの人生も仕事も自分なりに丁寧に積み上げてきたつもりでした。

 

 

 

 

決して簡単に捨てられるほど軽いものではありません。

 

 

 

 

そして移住することで家族の人生まで狂わせてしまうことになってしまうのではないか。

 

 

 

 

本当にそれでいいのか?

 

 

 

 

そんな声がいつも聞こえてきます。

 

 

 

 

それは出発の日が近づけば近づくほど僕にリアルに問いかけてきます。

 

 

 

 

しかし、そんな時に思い出すのは僕のアイドルの

 

 

 

 

LIFE IS CHALLENGE。

 

 

 

というあの日のブログ。

 

 

 

 

1度きりの人生です。

 

 

 

 

怖いのは何かに失敗することよりも、いつまでも本当の自分の人生が始まらないこと。

 

 

 

 

 

半年で日本に帰ってくることになるのか、永遠に帰ってこないのか。

 

 

 

 

今は全くわかりません。

 

 

 

 

そんなことは考えずに今はただ、

 

 

 

 

家族4人で南の島に住む。

 

 

 

 

それを数日後に叶えることができる幸運と、

 

 

 

 

それまでの数々の出会いに深く感謝を。

 

 

 

f:id:kentarohirota:20170813204712j:image 

 

 

 

 

 

僕の直感力の磨き方。

僕が不動産を買う上で重視しているのは、直感。

 

 

 

最初にどう感じたか。

 

 

 

最初に何を感じたか。

 

 

 

最初で買うかどうかが決まる。

 

 

 

一応はその後に、データを資料で確認する。

 

 

 

しかし、最後はやっぱり直感。

 

 

 

いわゆるシックスセンス、第六感。

 

 

 

直感といっても、デタラメとは違う。

 

 

 

では、僕の考える直感とは。

 

 

 

 

僕は意図して磨いてきたわけではないけれど、学生時代から音楽や本などを通じて独自の感性を磨いてきたつもりだ。

 

そしてそれらを自分で購入することで直感を磨いてきた。

 

 

 

学生時代は、ほとんどのお金を音楽や本に投資してきた。

 

 

 

群馬の中学・高校の頃は、僕のレベルが上がるにつれて地元では欲しいCDが見つからなくなってくるから池袋のWAVEまでわざわざ買いに行ったりしていた。

 

 

 

東京まで往復で交通費を4千円かけて、2、3千円のCDを2、3枚だけ買いに行く。

 

 

 

 

ジャケットを1枚1枚何度も見て、曲名を何度も読み返して想像して。

 

 

 

真剣も真剣。

 

 

 

何ヶ月分ものお小遣いを貯めてやっと買うのだから絶対に外せない。

 

 

 

 

 

ランキング上位のものや、雑誌で紹介されている話題盤などを買える性格だったら苦労しないが、僕は誰も知らない自分だけの1枚を探しに東京まで旅に出ていた。

 

 

 

 

でも、そんなことを繰り返しながら段々と自分だけの直感力を上げていく。

 

 

 

 

最初はジャケットや曲名だけだったのが、プロデューサーが誰だとか、年代や録音スタジオなどから音を想像する。

 

 

 

 

そんな方法は誰も教えてくれなかったけれど、少しでもハズレをなくすのに必死だから自分で色々と考えた。

 

 

 

 

その集大成は、20代のレコード屋さん時代。

 

 

 

 

アメリカに買い付けに行ったら、とにかく時間がないから手に取って1秒で買うか買わないかを決めていく。そしてそれが売り上げに反映されていくから本当に必死だ。

 

 

 

でも、それも全部直感。

 

 

 

音楽も本も感性に訴えるものだから、データで買わない。

 

 

 

自分の感性をフルに磨いて、その時の最高の直感で買う。

 

 

 

 

 

だから、僕は不動産を買うために借入するのが最初は大変だった。

 

 

 

なぜなら、自分の直感を銀行の方は信用してくれない。

 

 

 

それはそうだ。

 

 

 

なんでわかってくれないのかと思っても仕方がない。

 

 

 

 

何千万円もの借入をするのに、どこの誰だかわからない人間が直感ですと言っても誰も信用するはずがない。

 

 

 

 

だから、精度の高いデータを提供するしかないし、同時に結果を出すことで僕の直感の評価を上げていくしかない。

 

 

 

それを繰り返してきた。

 

 

 

そんな僕が思うこと。

 

 

 

 

直感力をあげていくのに大切なはじめの一歩目は、すべて自腹、自分のお金を使うということ。

 

 

 

1,000円、2,000円を自分のために使えない人間が、数百万、数千万、数億の不動産を買えるとは思えない。

 

 

 

レンタルCDや図書館で本を借りない。

 

 

 

自分のお金を投資するから、本気になる。

 

 

 

自分のお金を投資するから、本気で向き合う。

 

 

 

自分のお金を投資しないから、聴いたことがある、読んだことがある、だけで終わる。

で、すぐ忘れる。

 

 

 

自分のお金を投資して、それを自分の血肉にする必要がある。

 

 

 

僕は、お金がなかった学生時代からこれだと思う1枚、1冊に自分のお金を投資してきた。

 

 

 

レンタルしてきた人とは度胸が違う。覚悟が違う。

 

 

 

 

 

 

それが今は不動産になっているだけ。

 

 

 

 

 

だからこれと思ったものへの判断が早い。

 

 

 

だから他の人よりも早く買える。

 

 

 

早く買うから、あの人は判断が早いとまた違う物件の紹介が誰よりも早く来る。

 

 

 

そうやって少しずつ川上に近づいていくのだ。

 

 

 

だから僕は言いたい。

 

 

 

全部じゃなくていい。

 

 

 

 

でも、せめて自分がこれだと思うものには自分のお金をどんどん投資しよう。

 

 

 

そうすることでしか本気にならない。

 

 

 

この投資が失敗したら生活がやばい。

 

 

 

だからこそ生存本能が働いて直感が磨かれるんじゃないかな。

 

 

 

 

リスクを背負わない限り直感は磨かれないと思う。

 

 

 

 

まずは、音楽、本、旅、なんでもいい、毎月自己投資に1万円、そして10万円、100万円と使える自分になろう。

 

 

 

 

お金がないから自己投資できないんじゃなくて、自己投資しないからお金がいつまでも産まれない。

 

 

 

そして、お金がないからライブに行かないでYouTubeで済ませる、映画館に行かないでレンタルDVDで済ます、旅に出ないで近場で済ませる。

 

 

 

それで安く済ませたと思っている。お得に済ませたと思っている。

 

 

 

考え方が全くの逆なのです。

 

 

 

それじゃあ、五感が刺激されません。五感が刺激されないから、さらにその上の第六感が磨かれません。

 

 

 

自分のお金を使ってリアルを体感するから五感が刺激されて直感が磨かれていく。僕はそう思います。

 

 

 

僕がコンサートに今でもたくさんいくのはそんな理由からです。

 

 

 

みなさんも、自分のお好きなアーティストのライブに行ってみてください。魂を震わせる1曲で人生が変わることがあるはずです。

 

 

 

映画館に行ってみてください。大画面と大音量でレンタルDVDでは感じられない興奮があるはずです。

 

 

 

そこで初めて直感が磨かれます。

 

 

 

僕はそう思っています。

 

 

 f:id:kentarohirota:20170806202038j:image

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

42。

僕は、

もうずっと長いことBOØWYを聴いていなかった。

 

 

BOØWYに対して、当時のような熱い感情は全くなかった。

 

 

それでも僕は布袋さんのライブに行くことで人生で1番クレイジーだったティーンネイジャーの頃の自分を思い出したかったのかもしれない。

 

 

 

チケットを買ったのは発売後しばらくしてからだったから、座席は2階席だか、3階席だか忘れてしまったが、とにかくとても遠いところだった。

 

 

 

 

開演前からの布袋コール。

 

 

 

 

30周年を記念してのBOØWY、COMPLEX、ギタリズム時代を振り返る最初で最後の特別な一夜。

 

 

 

 

会場のボルテージは開演前から最高潮で、僕は息をするのも苦しいくらいドキドキしていた。

 

 

 

 

布袋さんは、こんなにすごいところでずっと戦っていたんだ。

 

 

 

 

それに比べて、

僕の人生はいつからこんな風になってしまったんだろう。

 

 

どうしてこんな風になってしまったんだろう。

 

 

どうして。

 

 

どうして。

 

 

どうして。

 

 

 

 

 

そんなことを考えていたら、突然会場が暗くなった。

 

 

 

もう心臓が止まりそうなほどバクバクしている。

 

 

 

ああ!布袋さんだ。

 

 

 

 

僕が昔死ぬほど憧れ続けたあのシルエットのままだ。

 

 

 

 

1曲目はなんとBOØWY初期のTEENAGE EMOTION。

 

 

 

僕は、

10代の頃の激しく溢れる程の激情を思い出した。

 

 

 

いつも何かに不満を持って納得していなかった毎日。

  

 

 

「どこかの誰かが俺たちに呼びかけている、腐った何かを捨てちまえと」

 

 「It's Not Too Late Because We Are Young,Because We Are Young」

 

 

 

 

あの頃の僕が今の僕を知ったら、どう思うだろうか。

 

 

 

 

僕はこの武道館で数々の楽曲を聴きながら、

初めてBOØWYを知った14才の頃からの自分を思い出していた。

 

 

 

父も母も、BOØWYに夢中な僕に呆れていた。

 

 

 

父も母も仕事中だった14才のある日、僕は試験期間中だったために早く自宅に帰ってきた。

そして勉強もせずに漫画を読みながらCDラジカセの音量を上げて自分の部屋でBOØWYを聴いていた。

 

 

 

しばらくすると突然、部屋の扉が開いた。

 

 

父が立っていた。

 

 

音を大きくしすぎたために父が帰ってきたのを僕は気が付かなかったのだ。

 

 

「やばい、お父さんに怒られる。」

 

 

父が近寄ってきた。

 

 

 

そして、CDラジカセの音量を調節するつまみを逆に回した。

 

 

 

「逆」に。だ。

 

 

 

「こういうのは、大きな音で聴かないとつまらないよな。」

 

 

 

そう言ってニコッと笑って、父は階段を降りていった。

 

 

 

 

僕は、父母の大きな優しさに何度救われたか。

 

 

 

 

僕は、高校を3校受験した。

すべり止めとして高崎高校の次のレベルの農大二高、

そして布袋さんの母校、新島学園

 

 

受験の順番は、

新島学園

農大二高、

高崎高校

 

 

 

新島学園に合格した時点で

僕の高校受験は終わっていた。

 

 

農大二校にも合格して、

そして最後の高崎高校

 

 

しかし、その前に

高崎高校に不合格だった場合を考えて、

どちらかの高校の入学金だけ払っておかなければならない。

 

 

 

僕は、新島学園をお願いした。

しかし、世間的にはどう考えても農大二高。

 

 

母は二校とも入学金を払っておいてくれた。

 

 

 

 

 

 

大学受験。

 

 

僕はずっと大学には行く気がなかったから、

高校では好き放題やった。

 

 

 

高3の6月に、

帝京大学の推薦申し込みがあった。

 

 

 

当時の担任から、

 

「広田、お前どうだ?」

 

とみんなの前で言われた。

 

 

 

僕は、

大学に行くとしたら最低六大学しか興味がないと答えると、

お前なんか帝京だって難しいぞと。

 

 

クラス中、大爆笑だった。

 

 

 

僕は、一人机の下で鉛筆を半分に折って悔しさを押し殺していた。

 

 

 

絶対に見返してやる。

と誓った。 

 

 

 

 

7月の全国模試を受けた。

 

 

言葉として日本語はわかるけど、

問題の意味がわからない。

 

 

 

 

結果はどの教科も 偏差値が30台ばかり。

 

 

 

母に無理を言って、

夏休みに東京まで予備校に通わせてもらった。

 

 

 

半年間、死ぬほど勉強をした。

 

 

大学受験は、高校受験の上をいく9つ受験をさせてもらった。

 

 

甲南大学1学部

成城大学1学部

成蹊大学1学部

青山学院3学部

立教大学2学部

早稲田大学1学部

 

これだけ受ければどこか受かるだろうと。

 

 

 

特に、最後の早稲田は受験直前の1月に受けようと思った。

 

 

親戚のお姉さんとお正月に会った時に、

 

 

「健ちゃん、早稲田のスポーツを受ければ?」

と教えてもらったからだ。

 

 

そんなの存在さえ知らなかった。

 

 

 

僕はおぼっちゃま大学に行って、たくさん遊びたかったのだ。

 

 

 

 

でも、ほとんどがマークシートだからとそんな軽い気持ちで受けることにした。

 

 

 

 

 

  

二番目に受けた成城大学の試験が終わった瞬間に、

「合格した。」

と思った。

 

 

 

 母に公衆電話から電話をしたのを覚えている。

 

 

 

でも、他はサッパリ。

 

 

 

 

第一希望の青学なんて、

全く受かる気がしなかった。

 

 

 

立教は途中で席を立って帰ろうと思ったくらい。

 

 

かるとしたら成城くらい。

でも、成城だって偏差値は60ちょっとの難関校だ。

 

 

 

 

結果は、驚くことに成城は合格していた。

 

 

 

 もう、奇跡だった。

 

 

 

それからは、友達みんなと連日連夜カラオケで大パーティーをした。

 

 

 

しかし、まだ早稲田の受験が残っていた。

 

 

 

全く行く気がなかったので忘れたふりをして誤魔化そうとしたら、

当日朝、母に

「今日受験でしょう?」

と言われて、仕方がなく行った。

 

 

 

行きの新幹線で、

外しておいた腕時計を座席にそのまま置いてトイレに行ったら帰ってきたら盗まれていた。

 

 

 

もう完全にやる気ゼロになった。

 

 

 

時計もなく試験を受けた。

 

 

時間がわからないのにどうやって試験をすればいいんだ。

 

 

 

問題も全くわからないので、

ほとんどの回答は鉛筆サイコロの数字の出たままに。

 

 

 

それだけじゃ、味気ないからと

マークシートを塗りつぶすのも配列が美しくなるようにとか、

受験生は問題作成者が1をずっと答えにするんなんてできないだろうからと考えるだろう、だから問題作成者は1という答えを連続するかもしれないから1を5つ連続でマークしたりと完全に試験をしていたのではなく心理テストみたいな感じだった。

 

 

 

 

もう本当にメチャクチャだった。

 

 

 

さっさと終わりにして、

試験が終わるまで

ガーガーと寝た。

 

 

 

真剣に受けていた人には

かなり迷惑だったと思う。

 

 

 

いびきで試験官の人に起こされて警告されたくらいだったから。

 

 

 

もちろん、合格発表の日も忘れていた。

 

 

 

僕だけでなく、父も母も。

 

 

 

 

もう僕は、

成城大学に行くことになっていてしかも父のアメフトの関係でアメフト部の監督から手紙まで来ていた。

 

 

 

早稲田のことなんか完全に忘れていたある日、

友達と遊んで自宅に戻ると郵便ポストに早稲田からの封筒が届いていた。

 

 

 

結果発表の紙が送られてきていたのだ。

 

 

 

そのままゴミ箱に捨てようとも思ったが、

テレビを付けてソファに座り、

何気なく封筒を開けて

僕は凍りついた。

 

 

 

僕の番号があったから。

 

 

 

仕事中の父母に電話をした。

 

 

 

そこからはもう大騒ぎだった。

 

 

 

でも、歴史は繰り返す。

 

 

 

大学で遊ぶ気満々だった僕は早稲田行きを嫌がる。

 

 

 

スポーツ学部だけ所沢の山奥のキャンパスなのだ。

 

 

 

父と所沢キャンパスを見に行くことに。

 

 

 

ここでどうやって遊ぶのか。

 

 

 

そして、

帰りに東伏見のサッカー部を見に行った。

 

 

 

なんと入部試験があるらしい。

 

 

 

僕の着ていたコートを、「これどこで買ったの?」と部員の方が話しかけてくれた。

「原宿です。」と答えた。

 

 

 

隣のアメフト部のグランドに行ったら、

父が早稲田のアメフト部の人に声をかけられた。

 

 

「広田さんじゃないですか?」

 

 

父は、アメフト界では本当に有名だったんだ。

 

 

 

覚えているのはそれくらいで僕は成城大学行きの意思を固めた。

 

 

 

早稲田の視察は逆効果だったのだ。

 

 

 

母は成城の入学金も学費も払っておくから、

まずは早稲田に行ってみろと。

 

 

 

嫌だったらやめて成城に行っていいからと。

 

 

 

 

早稲田の入学式の時間は僕は自宅のベッドで寝ていた。

 完全にナメていた。

 

 

 

 

その時はわからなかったけれど、

今は本当によくわかる。

 

 

 

大学を9つも受けて入学費、学費までダブルで払ってくれる人がどこにいるのか。

 

 

 

 

僕は本当にバカで、父母に甘え放題だった。

 

 

 

 

でも、

 

 

 

父も母もそんな僕をいつも信じてくれているのだ。

 

 

 

 

昔からずっと。

 

 

 

 

 

そして今は僕を信じて一緒になってくれた妻もいる。

 

 

長男も、生まれたばかりの次男もいる。

 

 

 

 

 

10代の頃に夢中になった曲を聴きながら、

10代の頃の僕と

今の僕、

そして

今の僕を心配しながらも応援してくれている家族の顔が浮かんできた。

 

 

 

 

人間は、強制されるよりも、とことん好き放題させてもらって

いよいよ自分で心から自覚した時は強い。

 

 

 

 

俺はどんなに大変でも打ちひしがれている場合じゃない。

 

 

 

 

死んでも絶対にギブアップできないんだ。

 

 

 

 

もう一度、やってやるんだ。

 

 

 

 

僕はNが隣にいることも忘れて、

肩を震わせて嗚咽していた。

 

 

 

 

気がつくと最後の曲になっていた。

 

 

 

布袋寅泰 / LONEY WILD

 

「きっといつの日か 孤独とも愛し合える

影さえ捨てた奴らには分かるはずのない祈り

きっといつの日か 自分を超えられると

涙が出るほど痛いPUNK 聴くたびに信じられる

 

きっといつの日か誰かの腕に抱かれ

傷だらけのその心に熱いキスの雨が降る

きっといつの日か 愛の嵐に溺れ

戦った数年間を振り返れると信じて

生き抜いてやれ昨日と明日の間

お前はLONEY WILD」

 

 

 

僕は2011年2月1日の武道館でこの歌を聴いて、

きっといつの日かこれからの数年間をどこかで振り返れる日が来ると、

その日を夢見て戦ってきました。

 

 

 

健美家コラムの第25話でも書いたのですが、

https://www.kenbiya.com/column/hirota/25/

今年2017年2月1日からのマレーシア生活で僕は約2週間全く何もせずに、

あの武道館の夜やこれらの日々のことを振り返りながら過ごしました。

 

 

 

 

本当に特別な2週間でした。

 

 

 

 

そしてもう皆さんはお気づきでしょうが、僕が2月1日からマレーシアの生活を始めた理由。

 

 

 

 

そうです。

 

 

 

 

また布袋か。

 

 

 

 

もう41歳にもなって。

 

 

 

こんなことを知ったら僕の周りのみんなは、また深いため息でしょうね。

あの修学旅行の時みたいに。

 

 

 

本当に僕は14才から思考回路が変わっていないのです。 

 

 

 

 

今思えば14才のあの日、名曲堂で出会った1枚のCDが僕の人生をとびっきりの最高なものにしてくれました。

 

 

 

 

「誰にも似たくない。

どこにも属さない。」

 

 

 

と誓いをたてた 4人組に僕は14才で出会い心から憧れ、

 

 

そして

41才の今もあの頃の気持ちのまま、

「誰にも似たくない。

どこにも属さない。」

人生を送っています。

 

  

 

これだけが、僕の人生の矜持です。

 

 

 

僕のブルーオーシャンの原点は、父と母とBOØWYです。

 

 

 

 

以上が、僕の14才から41才までの話です。

 

 

 

 

 

 

そしてここからは昨日42才になった僕が書いた、

「その後」の話です。

 

 

・高崎の名曲堂も新星堂も、2005年前後にたくさんの人に惜しまれながらも閉店されました。

 

 

・名曲堂で出会ったメガネのYさんは、その後もずっと僕に色々な音楽を教えてくれました。僕が地元でレコード屋さんをオープンするときには挨拶に行きました。しばらくして名曲堂が閉店してから、Yさんが僕のお店で働くことになりました。僕のお店ではロックを扱っていなかったので、ロックを取り扱う責任者として迎え入れましたが、僕の力不足であまり長く働いていただけませんでした。

 

 

高崎市の若者文化の発祥地として一時代を築いてきた新星堂。レコードだけではなく、地下は本屋さん、3階は楽器屋さんと、本当にたくさんの若者が集う場所でした。

 

 

新星堂のビルはその後解体されて、その跡地を今は僕の会社で所有しています。僕の父親が僕に買わないかと話を持ってきてくれたのです。14才の時に父がCDラジカセのつまみを逆に回してくれてから本当に色々なことがありました。しかし、僕の人生で起こった色々な点をつないで線にするには僕はまだ少し早いと思っています。まだまだ色々なところで僕ならではの点を残したいと思っています。そしていつの日か僕に力が備わってたくさんの点を線で繋げる時には、この新星堂の跡地をもう1度高崎市の若者が集う文化の中心になれる場所を作れたら最高だなと思っています。

 

 

 

 f:id:kentarohirota:20170730212401j:image

 

 

14→41。

誰にも似たくない。

どこにも属さない。

 

 

BOØWYの「Ø」には、

そんな意味が込められている。

 

 

 

 

14歳の時、

初めてCDコンポを買ってもらった。

 

 

そして初めて買ったCDは、

友達からカッコイイと教えてもらった

地元出身の伝説のロックバンド、

BOØWYのCDだった。

 

 

当時、高崎には名曲堂と新星堂というレコード店があって、昔、学生時代の布袋さんが名曲堂によく通っていたとか、氷室さんが新星堂の階段のところで怖そうな人といつも座っていたとか、地元ならではの数々の逸話があった。

 

 

僕は、その名曲堂というとても小さなレコード店に入って店員さんにBOØWYのCDがあるか聞いてみた。

 

 

メガネの店員さんは、初めてならこれがいいよと「Ø」と書かれたジャケットのCDを出してくれた。

 

 

BOØWYのシングル曲が全部入ったSINGLESというベスト盤のアルバムだった。

 

 

 

初めてのコンポに、

初めてのCDをセットして

PLAYボタンを押した瞬間のことは本当によく覚えている。

 

 

 1曲目の「ホンキートンキークレイジー」という曲が流れた瞬間に僕の人生の全てが変わった。

 

f:id:kentarohirota:20170722012002p:image

 

それからは全てがBOØWYだった。

 

 

 

地元の名門校である高崎高校に合格しても、

僕は布袋さんの出身校である新島学園に行くと言って母を困らせ、しまいには学校の学年主任の先生まで巻き込んだ騒ぎに。

 

 

 

高校1年の夏には部活をサボって、富士急ハイランドまで中学サッカー部の時の友達Nに付き合ってもらって布袋さんのソロコンサートを観に行った。

 

 

コンサートでは大雨が降ったり、帰りの東京で終電がなくなり池袋の西武デパートの入口でダンボールに包まって野宿したり。

 

 

 

高校の京都への修学旅行でも、みんなは金閣寺とかの京都らしいお土産を買っていた。

 

 

僕は、お土産屋さんに売っていた1.5メートル位もある超特大のBOØWYのパネルを買って帰りのバスに乗り込んだ。

 

 

こんなすげえの高崎には売ってない!

 

 

僕は興奮していたが、周りの友達はドン引きしていて、担任の先生も絶句していた。

 

 

 

今なら僕もそれはおかしいことだと分かる。

 

 

京都まで来て、修学旅行でBOØWY買うか?

 

 

 

でも当時は、本気だった。ウケ狙いでも何でもなくて。

 

 

 

京都ではその後に、湯のみにらくやきで模様をつけたのだけれど、僕は布袋さんのG柄といわれるあのあみだくじみたいな模様を湯のみに描いた。

 

 

そしてそれを見ても、もう僕に誰も何も言わなかった。

 

 

 

あいつは、クレイジー。

 

 

 

いつもBOØWYだったのだ。

 

 

 

受験の前もサッカーの試合の前もBOØWYのSINGLESを聞いて僕は自分に特別な魔法をかけた。

 

 

 

ホンキートンキークレイジーを聴くと、僕は一瞬で無敵になれた。

 

 

 

そんなBOØWY熱も大学で東京へ行くと一気に冷めた。

BOØWYを聴いている人が誰もいない。

 

 

群馬のヤンキーの人が聴いているやつでしょ。

みたいな感じで東京の女の子に言われた。

 

 

 

 

僕も高校の後半から、布袋さんのミュージックスクエアを聴きながら色々な音楽を好きになっていてBOØWYを少しずつ聴かなくはなってきていた。

 

 

 

そんなタイミングでもあったし、大学生になったらFINEやWARP、東京ストリートニュースなんかの雑誌を読んでヒップホップやR&B、レゲエを聴き出した。

 

 

 

レコードを買ってDJのフリをした、陸(おか)サーファーならぬ陸DJになった。

 

 

 

ブラックミュージックにとことんハマって、大学サッカー部の練習が休みの日には一日中渋谷のレコード村巡りをしていた。

 

 

 

クラブにもたくさん行った。

 

 

 

サッカー部の仲間と卒業パーティーをやって渋谷のクラブエイジアを超満員にした。そこで超下手だったが人前で人生初のDJをした。

 

 

 

シンガポールでサッカーをしていた時もいつもグランドにラジカセを持っていって陽気なアフリカ人のチームメイトと踊っていた。

 

 

 

サッカーをやめて、アメリカにレコードの買い付けに行った。そしてレコード屋をオープンした。僕のレコード店は紆余曲折を経て全国からお客さんが集まる有名店となった。

 

 

 

もう完全にBOØWYは過去の触れられたくない思い出でしかなかった。

 

 

 

 

もう永遠にBOØWYは聴くことがないと思っていた。

 

 

 

 

2011年。

 

 

 

 

僕は苦しんでいた。

 

 

 

絶好調だったレコードビジネスをやめて、不動産業を始めたものの全く結果がでなかった。

 

 

 

僕は、終わりの見えない絶不調に疲れ切っていた。

 

 

 

その数年の間、僕にできることは全部やったし、もうこれ以上何をやれば良いのか分からない。藁(わら)でもなんでも掴めるものならば、掴みたいけれど藁さえもつかめない。

 

 

 

 

サッカーで鍛えた精神力も、もう限界だった。 

 

 

 

そんな時に、本当に偶然インターネットで布袋30周年武道館ライブという記事を見つけた。

 

 

 

 

布袋さん、まだ現役だったのか。

スゲエな。

 

 

 

 

それに比べて、

もう疲れ果てていた僕は不動産をやめようと思っていた。

 

 

 

 

 人生初のギブアップになってしまうのかな。

 

 

 

それならば最後に大好きだった布袋さんを観て区切りをつけるのも悪くないなと何となく思った。

 

 

 

 

僕は、

富士急ハイランドに一緒に行ってくれたNに数年振りに電話をしてみた。

 

 

 

「布袋のコンサートに一緒に行かないか。」

 

 

 

彼は、あの時と同じくYESと言ってくれた。

 

 

 

「サッカーでもいつも広田は攻めっぱなしだったから、俺は守るのが大変だったよ。」と笑いながら言うNは本当に優しい奴なのだ。

 

 

 

そして、2011年2月1日。

武道館での布袋30周年ライブ。

 

 

 

本当はライブのチケットを買うのも、新幹線で東京に行くのもお金が全くなくてどうしようかと思っていたけれど、起業してから今まで本当によく頑張ってきたし、これが最後になるかもしれないからと自分で自分にご褒美のつもりでチケットを買ったのだ。

 

 

 

 

 

次回、来週の日曜日に続く。

 

 

 

 

now or never。

2度とない機会、

またとないチャンス、

正確にはそんな訳になるようです。

 

 

 

でも僕は、

今やらなきゃ、

一生やらない。

そんな風にこの言葉を捉えてます。

 

 

 

人生はチャンスに満ち溢れています。

それなのに、自分の準備不足でモノにできなかったり、自分の心が弱くて選択できないだけで、いつまでも「次こそは」を繰り返している。

 

 

そうしている間に、10代で夢見ていた僕らは20代になって経験を積むためと自分に言い聞かせ、30代で最後のチャンスと思いながらも家族のことを考えて一歩を踏み出せず、いつのまにか40代でもう無理と勝手に自分の人生を諦める。

 

 

いつまでそんなことを繰り返すのだろう。

そんなことを繰り返しているうちに自分のことまで嫌いになってしまわないだろうか。

 

 

昔、

ラッパーのzeebra
誰かの夢がまた行方不明、
と歌っていたけど、

絶対に自分の夢を諦めたり、

行方不明にさせちゃいけない。

 

 

 

それは、僕自身の経験からも言える。

30代になった僕は、1度だけ自分の夢を諦めた。もう充分好き勝手なことをさせてもらったから、60歳を目前にした父の最後の仕事人生10年間を僕が全力で助けたい、父がやりたかったことを全部僕が叶える。生まれたばかりの僕の長男の寝顔を見てそう思ったからだ。

 

 

父の夢って何だろう。

僕は勘違いしていたのかもしれない。

 

 

僕の長男が10歳になった今なら分かる気がする。

自分の人生を思いっきり生きて欲しい。

僕のために自分の人生を犠牲になんてしないで欲しい。

 

 

 

 

 

広田さんって、健美家でコラム書いている広田さんと何か関係があるんですか?

 

関係も何も自分の息子ですよ。

 

 

 

不動産業を営む父は、お客様からこう尋ねられることがあるという。

 

最近は俺より有名になってきたみたいで。と周りに嬉しそうに笑いながら言っていたよとその姿を見た妻に教えてもらった。

 

 

 

僕はご存知の通り、父の会社から逃げ出して父のそばでサポートをすることはできなかったけれども、それでもいつか父の力になりたいという気持ちを胸に不動産という道からは逃げ出さず10年頑張ってきた。

 

そして最近は、父の耳に入るくらいの活躍ができるようになってきたみたいだ。

 

 

10年かかってその一言を聞けて、死にそうなくらい嬉しかった。

 

 

夢は形を変えてでも努力している限り必ず実現するのだと思う。

 

 

 

どんな人生を選んでも良いと思う。

 

 

 

なぜならそれは自分のたった1度だけの人生なのだから。

そして、その選んだ人生を思いっきり後悔なく生きることだと思う。

 

 

周りからどう思われようが、自分の人生に責任を取れるのは自分だけ。

1度きりの人生思いっきりやりたいことをやればいいと思う。

 

 

思いっきり生きたくても生きられない人もいる。

もっと生きたかったのに志半ばで人生を終えることになってしまった人もいる。

 

 

そう考えたら、自分が何歳だろうと、これから先の人生はやりたいことは全て今やらなきゃって思いません?

 

 

今やらなきゃ、

一生やらない。

 

 

だって、

今までそうだったんだから。

 

 

でも、

今ならまだ間に合うはず。

 

 

完璧じゃなくて良い、

失敗したって良い、

とにかくやる。

 

 

無傷で勝とうなんて考えない。

保証を求めようとしない。

 

 

 

僕は、泥だらけになってもがいてあがいて

のたうちまわって苦しんで

10年かかりました。

 

 

 

お互い明日からの人生は全て「今」で。

 

 

 

そして

Iさん。

快復を心の底から祈ってます。